尾崎豊
先日NHKの番組で、”十代のカリスマ、尾崎豊”の番組をやっていた。名前は聞いたことがあったが、彼について私はよくは知らなかった。彼がどういう人物だったか、番組を見て少し理解した。思春期の思い、それは大人に対する反抗であり、世の中の矛盾に対するやるせなさであり、自分が何もできないことに対する苛立ちであり、将来に対する漠然とした不安であり、自己主張したい自我の行き所のない葛藤であり、これらの入り混じった感情がぐるぐると自分の中で回って、出口を探している状態。
彼は歌にそれをぶつけた。19歳の時のコンサートを中心に番組は編成されていたが、19歳とは思えぬふてぶてしさと、逆にとても幼稚な横顔とある種きちがいかと思うような目つきが交錯していた。その様子から、その後の彼の人生の終末は予測できるようだった。誰でも思春期の頃は、大小は別として彼のような心情を持つものだ。彼の場合、結果としてそれを克服して大人になれなかった・・・ということか。確かにその純粋さは素晴らしいのかもしれないが、人間、純粋すぎるときっと生きてゆけなくなるのだろう。哲学者や文学者で純粋に人生を考えすぎて、死んでしまう人も結構いる。私はいつの頃に、この純粋人間からいわゆる”大人”へと変身したのだろうか?
もちろん徐々に変わっていったのだろうけれど、「大人になるということは、純粋ではなくなることではない」と私は思う。いや、今だから思える。昔は私だって、「大人はずるい!とか、汚い大人になんかなりたくない」と思っていた時が確かにあった。しかし、汚くない大人にもなれるのだと言うことがわかるようになった。そういう若者を幻滅させない大人にならなくてはいけない。今思えば、あの思春期の頃のような純粋さが懐かしくもあるが、うらやましくはない。今は、ただそこから堕落したのではなく、進歩していると思える、より人生の意味を理解できている(その頃より)と思えるから。その頃は人生の意味を求めてあえいでいた。
思春期の”純粋”かもしれないが幼稚な思いは、色々な体験を通して、”本当に感謝できる心”を持てるようになった時に進化し、”純粋だけれど大人”という状態になれるのだと思う。